従五位下宮﨑阿波守藤原朝臣信敦 2

宮崎信敦翁

筑後国三潴郡蛭池村に生まれる。

信章翁の第一子なり。

母は佐斐姫。氏 幼にして寡黙謹厳 夙に成人の風あり。

年若冠に京都に遊び香川景樹の門に入り、又詠歌の道を富士谷御杖に

質し積学多年造詣殊に深し。兼て萩原家所伝の神祗道を修め悉さに薀奥を

極む。後筑後國三潴郡蛭池村三島神社の祠官となり其の祖業を継ぐ。

是に於いて専ら道を広め業を授く。

門人四方より来たり学ぶ者前後千人を超え、

門人四方より来たり学ぶ者前後千人を超え、筑後の神官は特に

期を定めて聴講す。遠近の学者来たり訪ふもの踵(きびす)を接し

九州の国学歌道為に大いに振い神祇の道 甚だ尊し矣。

当時藩治の際国境の出入頗る巌なり、翁の聘せられて国典を

講し歌道を授くる所肥後肥前に及ぶ。門人某豊前より来たり学を

修むること三年其の在学の証を携えて郷に帰る、藩主これを聞き

俄に帯刀を許したることありと言う。

翁は身体偉大風貌秀麗言行謹厳にして敢て人に下らず。

文化十四年五月二十三日篤学敬神の故を以て朝廷特に褒進従五位下に叙し

阿波守に任ず。当時の名儒 肥前の草場楓川。筑後の樺島公礼、池尻葛潭

に亦(また)就いて歌道を修む。

楓川仕うる所の藩主 翁を聘し禄を授けんとし楓川を以て其の意を伝えしむ。

翁これに応ぜず。密かに家人に言って曰く、我は則(すなわ)ち

天子の臣従五位下阿波守たり。豈(あに)敢(あえ)て諸侯に仕えんや道を伝うれば

則ち足れりと。事輒(すなわ)ち止む。年数回往きて講義を為し詠歌の添削を施す。

久留米藩の学校を明善堂と言う、其の講師となり専ら古今集万葉集を講演す。

人心の帰向実に甚し。漢学の衰運に帰せんことを憂うるものあるに至る。

翁常に王室の専崇せざる可からざるを論す、聞く者勤皇の志を立つ。

翁終に諸侯に仕えずと雖(いえど)も久留米藩の士人苟(いやしく)も歌道に志ある者

は皆其の門人なり然らざれば則ち其の門人に就て修めたるものなり。

筑後国風の盛なる皆翁の遺す所。晩年に及び門人に秀才あり。

船曳大滋、真木保臣、船曳鉄門、大藪基足、共に其の高弟なり。

時 嘉永安政年間に属し天下騒然たり。

大滋夙に翁の風あり終に藩の聘に応ぜず空しく志を齎(もた)らして長崎に客死す。

基足勤皇の志篤く保臣と常に国事を議す偶々肺を病いて而して起たず。

保臣鉄門後に藩の禁錮に遭う。

保臣の水田村に幽閉せらるるや翁老躯を以て密かに裏門より出入し国事を議せしことあり、

保臣禁錮中魁殿物語を草し時世を風刺す、稿成り密かに手書を贈りて添削を翁に請う。

後に保臣脱藩して大事に殉ず。翁齢も亦甚だ傾けり。

保臣の手書及物語は今尚翁の子孫の家に在り。

翁齢86にして文久元年辛酉八月五日卆す。

明治39年大日本歌道奨励会は翁を歌神に列し祭典を行いたり。

 

 

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