歌人 宮﨑信敦

家内いわく、「お読みになられた方が解りやすく書かれたらよろしいのでは。」

大木町が故郷の文学者で、松永伍一先生がおられます。先生がお亡くなりになって、

(西暦2008年3月3日卆)今年で、9年・・・来年は、10年を迎えるのですが、

先生も文学の道に進む人生の中で、郷土の偉人を調べ宮﨑家を訪れています。

 

宮崎 信敦

 

ある夏の日の午后、わたくしは長いこと念願していた宮﨑家訪問を思い立った。

宮﨑家は蛭池の三島神社横の古めかしい家である。案内されて黒ぬりの門をくぐる。

そのときわたくしはまるで旅人のような妙な感じを抱いた。それは歌人宮﨑信敦をたずねてはるばる

やって来た人々の名前を何人も覚えて、その名をくりかえしていたからであろう。

つまり、大木町文学の開祖とでも云うべき人は、この家の数代の先祖にあたる宮﨑阿波ノ守信敦である。

わたくしは家人の前原(宮﨑)さんの話をきいたり、古文書や歌稿、短冊を見せてもらって次々と

メモをとっていった。

信敦は安永5年3月20日、今から179年前、この蛭池に生まれた。

少年時代から特に文学に親しみ、柳川の学者富士谷御杖について皇学を学んだといわれ、

青年時代に入って京都にのぼり神道の研究で有名な萩原家の門に入り神道、皇学を学んだが、後、

思うことあって香川景樹の門に入った。景樹は「桂園派(けいえんは)」という歌人の一派をうちたて

その中心的人物であったから、信敦もその教えによって、平安時代の貴族の歌を集めた古今集の精神と

作家態度を身につけた。

その頃は中国の学問を研究する幕府の儒学派(じゅがくは)、

林羅山(はやしらざん)、室鳩巣(むろきゅうぞう)らの学者と

荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、

本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)らの国学派とがつめたい対立をしていて、

たがいにはげしいせめりあいをしていた。信敦は国学派であることは云うまでもない。

28才のとき、かれは蛭池に帰って来て、三島神社の祠官(神主)になった。

そのかたわら久留米明善堂(いまの明善校の前身)の教師として、日本の古典を講義したらしい。

わたくしは古びたきりの箱から出してもらった短冊に夏の歌はないかとさがしていたら

「なるかみの音ばかりして浮雲のよそにのみ降る夕立の雨」

というのを見つけ出した。ちょうど東北の耳納連山あたりにかるい雷の音がしていた。蛭池の人

たちが保育園の広場に干していた萱をかやしていたのを思い出してその短冊をにぎっていると

「あの有名な船曳鉄門(ふなびきてつもん)というひとは、信敦の養子だったんです」

と前原(宮﨑)さんが云われた。鉄門は久留米の大石の人で信敦の甥にあたり、養子となって蛭池に

来ていたのである。ところが大石の家をつぐはずの兄の大滋(だいじ)が二十数才の若さで死んだため

に、鉄門は久留米に帰ったわけである。二人とも博識多才の歌人で大滋は花庵(かあん)とも号し、

鉄門は巖主(いわぬし)・石主と号していた。

これらの兄弟が歌人として名をなしたのは、やはり信敦の感化によるが、その他、久留米の水天宮の

神官 真木和泉ノ守保臣や佐賀藩の教授草場佩川などは特にその門弟として大きな影響をうけている。

なかでも勤皇の志士として社会運動をしていた真木和泉は、水田(筑後市水田)に監禁されていたが、

ひそかにその山梔窩をたずねた人として、平野國臣、鈴木重胤、田中河内介らの有名な人があった。

師にあたる信敦も人の目をさけ嘉永6年11月6日見舞って和泉をなぐさめている。

信敦はすでに78歳であった。

和泉の「南遷日録」には「午後宮阿州来訪。○迎千山梔窩。置酒而談。悲喜交至。阿州年七十八、

尚健。見贈莚、鴨、酒」としたためてある。ござとかもと酒を見舞いとして贈ったのであろう。

もしかしたらそのござは蛭池の田頭の娘の織ったものかも知れないし、鴨は宮﨑家の池からとれたものかも

知れないと思って、私は縁先の堀に手を加えたこの池をながめていた。あやめも咲き終わって、

その実だけがかたくいくつも立っているのが見えた。

カメラを出して資料を撮らせてもらったが、大隈言道(おおくまことみち)のうつくしい平仮名や

鈴木重胤のぼってりとした風格のある字が特に印象にのこった。

筑前の伊藤常足、大隈言道  豊前の佐久間種、淡路津名郡(兵庫県)の鈴木重胤、

久留米藩の樺島石梁、池尻葛覃、有馬播馬、周防の近藤播馬、周防の近藤芳樹らは

信敦をたずねて文学を談じている。ある日、京都からはるばるたずねて来た人が、

あまりに礼をあつくしたのを恥じて

「筑紫なるみぬまの沼に生ひたちしあしをよしとは誰か云ひけむ」

と短冊に一筆かいて贈ったといわれる。

嘉永7年8月、真木和泉は約十カ月かかって書きあげた「魁殿物語」を信敦に見てもらったが、

その頃はすでに老いの身で朱筆もかるくはこばなかったらしい。

文化十四年五月二十二日、従五位下に叙せられ、阿波ノ守に任ぜられたが、文久元年八月五日、

八十六才で死亡した。

久留米藩では死後、白銀二枚を贈り、明治三十九年には大日本歌道奨励会では信敦を日本の歌神の

1人としてまつったということである。

「暮れぬともいざ見てゆかむ山桜明日はあらしの吹きもこそすれ」

(花 盛)

「時雨のみふるかときけば軒ちかきはじの紅葉もかつ散りにけり

(落葉混雨)

「長き夜もやや更けにけり埋火のそこひも知らぬ昔かたりに

(埋 火)

 

 

 

 

社務所、祈願受付。お気軽にお問い合わせください。0944-33-2882受付時間 9:00-18:00 [ 土・日・祝日除く ] FAX:0944-33-2892